ベネズエラ出身のモンテーロのモーツァルト・ピアノ協奏曲第21番と、欧州で注目度No.1の若手指揮者、レンメライト指揮によるチャイコフスキーの「悲愴」のライブを聴きに行った。この日は幸運な事に友人からプレスパスを頂いたので、タダで観る事ができた。たまには良い事もある。
モンテーロと言えばオバマ大統領の就任式の時にパールマンやヨーヨーマらと一緒に演奏したピアニストだ。彼女は南米出身らしく明るく自然体で、澄んだ清流のようにモーツァルトを弾いた。こんな爽やかな演奏でこの曲を聴いたのは初めてだ。彼女は写真で見るよりも大柄な女性だが、あの軽やかな指の動きはまるで水が流れるかのようにシルキーだった。
曲が終わった後マイクを取って、聴衆に「何かお好きな曲があれば言ってください、それを即興でアレンジしてお聴かせ致します」と言い、聴衆の一人が一曲リクエストした(曲名は失念)。彼女はその曲名を知らなかったようだが、その人が歌って見せると「ああ」と言って鍵盤を叩き、「この曲?この曲はそういう名前だったのね。」と言いながらメロディーを思い出すように鍵盤を叩いてから即興を始めた。
彼女は即興能力が高い事で有名だが、その演奏を目の当たりにして心から感動した。シアトル・シンフォニーの奏者ひとりひとりの表情を見れば彼らも心から愉しみ、そして感動しているのが分かった。私もきっと目を大きく見開いて、同じような表情をしていたのだと思う。とにかく曲が進むにつれてどんどん複雑に、そしてスケールも大きくなるアレンジで、主題の短い曲にもかかわらず曲が終わった瞬間に聴衆全員が興奮のあまり大喝采を浴びせる出来であった。人間の才能というのは素晴らしい。彼女のCDは持っていないので、あとでAmazonを徘徊する予定だ。
さて、この日のメインはにノルウェーから招かれたレンメライト指揮によるチャイコフスキーの「悲愴」だが、その前にルドヴィク・イルゲンス=イェンセンのシンフォニア「The Drover」が演奏された。ルドヴィク・イルゲンス=イェンセンはノルウェーの作曲家で、ノルウェー以外ではあまり知られていないそうで、実際私も知らなかった。この曲が選択された理由は指揮者であるレンメライトがノルウェー出身だからだろう。彼は欧州では現在最も注目されている若手指揮者の一人で、喋りは軽快でジョークを多く交えるサービス精神旺盛なタイプだが、指揮は大変エネルギッシュでありながら洗練された、かなりセンスの良い指揮者だと感じた。
最初に演奏されたこの「The Drover」という曲は1939年発表の作品だが、この曲の演奏はこの日がアメリカにおいての初演とのことで、光栄であった。この曲は全く知らない曲だが、初めて聴く割には馴染み易く好印象。ただあまりにもマイナーな曲らしく、Amazon.comで検索しても2枚くらいしか見つからない。
いよいよメインの「悲愴」。私のスタンダードはゲルギエフによる演奏のものだが、レンメライトの演奏はそれと比較すると「紳士的で知的」と形容できるかも知れない。かと言ってあまりにも端正過ぎて退屈かと言えばそうではなく、知的でありながら情熱的な一面を持ち、ゲルギエフのような極端な演奏ではなく情熱や激情がうまく制御された「正統派」の「悲愴」だと感じた。第一楽章の荒々しさ、第二楽章の美しさ、第三楽章の雄大さ、そして第四楽章の悲壮感、どれを取っても非の打ち所のない正統派の演奏であった。第三楽章は行進曲らしく力強く気分を高揚させる演奏で、気分の高ぶった聴衆が第三楽章の終わりに我慢ができずに「ワァー」と拍手してしまった程。これは指揮者にとって予想外だったのか、拍手を止めるようにという仕草を少しした後に第四楽章に入った。個人的にも交響曲の途中で拍手をされるのは気分が途切れるので止めて欲しいと思うが、あまりの感動に自然に拍手してしまう聴衆の気持ちは分からないでもない。それ程までに素晴らしい演奏だった。
それにしてもチャイコフスキーの「悲愴」は実に重い曲だ。同性愛者であり、内向的で、そして躁鬱を繰り返したチャイコフスキーの苦しみを表現するかのような哀しい旋律はいつ聴いても心に沁みる。アメリカ人にはあまり人気の無い曲だが、哀しみに共感できる日本人の感性に合う素晴らしい作品だと思う。